Renovation Interview 2009.3.31
コモンという実験──建物をひらく可能性
[座談会]岡部明子×大島芳彦×磯達雄×新堀学
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ひらくための「コモン」
新掘 続けて「コモン」という概念について岡部さんにうががいたいと思いますが、その前に大島さんから、ここでいまなさっているプロジェクトのお話を聞かせていただけますか。
大島芳彦 ここはご存じのように吉村順三さんが設計した建物なのですけれど、お話をいただいた当初はそのことを知りませんでした。所有者から、このような最高のロケーションに古い建物が建っているから、建替えの検討をしてもらいたいという依頼をいただきました。現地を拝見し、資料を調べるうちに吉村先生の設計とわかったわけです。事実が判明してからは、所有者の方も含めそれは大変だという話になって、この建物を残す方向で考えたいという話に変わったのです。そうはいっても、オーナーとしては建物を有効に活用することが目的であり、保存することが目的ではありません。どのようにすればいいのか私だけではわからない部分もありましたので、とにかく皆で集まって考えて行きましょうということになりました。
ここでは「コモン」という概念をテーマにしています。通常、建築家が設計した個人住宅というのは、ものすごくプライベートなもので、家族では共有しているのだけれど、それ以上にはなっていかない非常に閉鎖的な環境です。ところが、この建物は元来「シュレム邸」「羽仁邸」ではなくて、「シュレム・羽仁邸」という二つの家族のための共同住宅的側面を持っていることに着目しました。それぞれ独立した住戸ではありますが、共用スペースを有しています。そうしたスペースは、この場所がなにか「コモン」と呼べるようなものを内包した社会性の存在を想起させます。所有者が受け継がれていくうちに、そうした設計当時の想いが薄れてきた。けれども、もともとが共同住宅ですから、さまざまな人が参加していくことでそのことがまた思い出されて、建物が変化していけるのかなと思っています。さきほど、少しずつ変化していく岡部邸のお話がありましたが、個人住宅でもコンテンツやライフスタイルは変化していきます。それにあわせてニーズも変わり、いろいろな要素が変わって、建物のかたちも変わります。吉村順三さんの元設計に戻すのではなく、この建物もそうした変化を許容する器として、さまざまな人が関わりうる家へと繋げていきたいと思っています。
大島芳彦氏
新掘 ここでのこれからの活動の背景としては、個人の所有物という括弧をはずしたときに、なにがおこるかについて考えるチャンスが与えられているのです。この家を媒介にして人が集まることで、この家に関心を持つ人が繋がる、その繋がり自体を「コモン」ととりあえず呼んでみています。じつは厳密にこの言葉を使っているのかどうかは微妙なところがあるのですけれど、岡部さんから見て「コモン」というキーワードはどのようにとらえられますか。
岡部 建築の人たちは、かなり物理的な空間として「コモン」をとらえていると思います。プライベートとパブリックがあり、その中間としてコモンを位置づけるというように、半私半共みたいなものをコモンだと思っている。けれども、コモンは、プライベートとパブリックのグラデーションのなかにあるものではないということをはっきり認識しないといけないと思います。
そもそも、コモンというのは、村落共同体・運命共同体的な性格を持っていて、共同体に入っていない人を排除する、村八分にすることによってコモンは維持されていくわけです。コモンに属していない人を明確に規定することによって、コモンは存在理由を持つ。それに対し、パブリックは皆に開かれている。コモンがあるひとつの色に染まっている人だけしか認めない排他的なものであるのに対して、パブリックは、さまざまな人が入ってくる多様性、複数性を特徴にしています。パブリックとコモンは、水と油のように決定的に対立する側面を持っているのです。
また、コモンズ論には、「コモンズの悲劇」という呪縛があります。このことについては、経済学者の宇沢弘文先生から学びました。共有で管理していくと、皆がむさぼり、結局、資源が枯渇してしまう。そうした考え方は、近代に移行するきっかけとなりました。しかし、近代システムにほころびが見えはじめると、コモンズ研究の第一人者マーガレット・マッキーンによって「コモンズの悲劇は、コモンズが生み出した悲劇ではなく、コモンズが失われたことによる悲劇なのだ」という主張が唱えられました。共同管理が崩壊したために、それぞれが自分の欲求のままにむさぼるようになって、資源をなくしてしまったのだと。そういう近代の合理主義や効率性を追究する考え方のオルタナティヴもコモンの一面です。
大島 コモン内にヒエラルキーはあるのですか。共同住宅の場合、例えば、長屋は閉じられているけれども、コモンのイメージに近いと思います。そのなかには隠居がいて、くまさん、はっつぁん、おかみに乳飲み子といったさまざまな人がいて経済的格差もあるけれども、それはひとつのコモン。またそれとは反対に、似た人が集まって形成されているようなものもありますよね。高級外国人用賃貸住宅やワンルームマンションなどの集合体は長屋とは違う関係を持っている。ここであれば、シュレムさんと羽仁さんは、おそらく似たような価値観と経済力を持っていたのではないかと想像します。そこに集う人たちも、似たような生活をおくっていたのでしょう。いま僕らがここで考えていることは、その閉じた共同体の意識をもう少し広げてはどうだろうかということです。もう少し地域に開かれた、大きな意味のコモンにしようとしています。
新堀 ここでは、自分がそこに属するというその意識自体を参加要件にするということはありうると思っています。コモンに参加することで、なんらかを負担したり、責任を負ったり、そこに運命の共同性を感じること、参加意識を媒介にするような集まり方はあっても良いと思います。»

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