Renovation Interview 2009.4.30
コモンという実験──建物をひらく可能性
論考]新堀学
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残す/活かす/つなぐ──主体のスケーラビリティ|新堀学
「コモン」という用語の歴史性を踏まえると、必ずしもここで使っている用法は正確ではないのかもしれない。《旧羽仁・シュレム邸》で進行中のプロジェクトにおいてわれわれが考えていたこと、このシリーズのなかで「主体」について考えていたことのひとつは、建築を活かす主体の「スケール」の問題だった。
磯氏の発言にもあったように、「保存」において個人と公共のあいだのスケールを持ったイニシアティヴが必要とされるケースがある。個人で所有・維持していくには大きすぎ、また文化遺産として公共が負担することには社会全般の理解を集めにくいスケールの建築の存続が議論されるときである。そのスケールのキャズムに対応するものとして、ここでは「コモン」という言葉の意図的な誤用(?)を試してみたのだった。厳密に言えばわれわれの考え方が目指す先にあるものは、岡部氏の批判にもあるように、本来の意味での「コモン」ではないのだろう。最終的にはなにか別の言葉を見出すべきだと思う。
しかし問題の要点は、建築がその他の財産と異なり、存在することの価値が「所有関係」のなかに完結しない点にあろう。存在の動機は確かに所有の主体に結びついているのだろうが、建設された瞬間に建築は町並みなどの周囲の環境のなかに組み込まれ、関係のなかでの価値をも備えてしまう。結果としてその価値は、所有関係を超えて体験のなかにディスクローズされてしまう。そしてその剰余にこそ建築ならではの価値があるとすれば、それを享受しまたその維持を負担する主体が、所有関係を超えて複数化することも当然のことだろう。
そういった「みんなの建築」という概念の両端に、個人的所有と公有財産とがあると考えるならば、その「みんな」という主体のスケール(と、建築のスケールのマッチング)をこそ計画の対象と考えるべきであろう。つまり主体をスケーラブルに考えることでうまく活かすことができる建築は増えるのではないだろうか。この《旧羽仁・シュレム邸》でのささやかな試みの射程はそこにある。そしてこのことは、「変わりながらもアイデンティティが続いていく」都市の一員として、単一主体の所有を超える建築の存続という時間的なスケールについてもじつは同様に考えられるだろう。
ところで、その主体のスケールを建築にあわせて計画する/コントロールする職能とはいったい誰のものなのだろうか。スケールという絶対値のコントロールということで建築家のもうひとつのフィールドとなっていくのか、あるいは複数主体の調停行為としてファシリテータ的な関係調整者の仕事となるのか。あるいはそれ以外の職能が新たに見出せるのだろうか。この「葉山コモンズ・プロジェクト」のなかでなにがしかの展望を期待したい。

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