《金沢21世紀美術館》とCAAKのライバル関係 |
新堀 |
《21世紀美術館》のように建築とまちの空間にギャップがない建物はなかなかないと思うのですが、それでもCAAKのまちに対する活動が美術館の外で行なわれていることに重要な意味あいがあるのでしょうか。 |
鷲田 |
レジデンスというと生活に密着したものなので、美術館の中よりも外にあったほうが、生活の場として地域の人と関わりやすいと思うんです。美術館からそんなに遠くなくて歩いていける場所に、地域と関わりが深いCAAKという場所があれば、ちょうどいい距離感覚でお互いが補完しあうということは意識はしています。あとは、《21世紀美術館》という正規軍に対して、ゲリラ軍のようなモデルとして考えていて、美術館だと大きいがゆえになかなか小回りが利かないことを、CAAKがもっと小回りを利かせて動けることで、まちや美術にとって非常にいいインフラとして機能するだろうと考えています。 |
倉方 |
鷲田さんの言葉をお聞きして、金沢の市街地にある《21世紀美術館》ですが、それは金沢市という行政単位に根ざした、どちらかというと俯瞰的なもの。それに対してCAAKは立地と関わった、より虫瞰的なものという区別を正当に意識されていることに感服しました。当然、あまねく市民に発信すべき公立美術館の役割と、有志の集まりは違うわけですから。そうなると、異質の両者が補完関係として機能することを期待されているわけですね。 |
鷲田 |
そうですね。ただ補完関係と言っても、両方が協力し合っているだけではだめだと思っています。むしろ、敵対するライバルというような部分があったほうがいいんです。つまり美術館がやっていることに対して、それはつまらないとちゃんと批判できる場所になるべきと思っていますし、CAAKは美術館の期待することだけをやるような場所ではなくて、美術館ではなかなかできないけれど、やったほうが面白いものをCAAKでやるべきだと思いますす。お互いに刺激を受けて面白いものをやっていかないといけないと考えられると一番ですよね。 |
倉方 |
《21世紀美術館》のほかにCAAKがあることによって、どんな波及効果がありましたか? たとえば、CAAKによって、一般の市民にとってどんな効果があったか、または今後与えていきたいか。また、一般市民というよりは、建築家とかデザイナー、愛好者といった、いろんなネットワークを組んでいるような人たちに対して、CAAKの存在が刺激になっているのでしょうか。 |
鷲田 |
前者に関しては、あまねく市民にCAAKが働きかけようと思っているわけではなくて、むしろそういう要望というのは《21世紀美術館》が受け入れるべきものであって、CAAKのほうはもっとピンポイントでもいいと思っています。あまねく市民に働きかけようという労力はかけないけれども、でもそういう関わりを断ち切っているわけではないので、地域の人たちでこの場所を使いたいという人がいたらぜひ使ってもらいたいと思っていますし、寺町のエリアの中で、ある程度地域の人と関わりはつくっていけたらいいなと考えています。 |
新堀 |
CAAKやその周辺にいる人たちからは、受け手でも送り手でもない人たちが出てきそうなイメージを持っているんですが、ユーザー側が作り手でもある、作り手なんだけど実はユーザーでもあるというようなことが、CAAKのイヴェントに参加してくれるような人たちによって見えてくる兆しはありますか? |
鷲田 |
いまはまだ、CAAKに関わっている人たちは、受け手側にいると認識しています。最終的にCAAKの活動を終了するとなった時に、関わっていた人たちが自分たちで続けていけるようなところを目指したいと私は思っています。いまの時点でCAAKを引き継ぐ人たちが出てくるところまではいってません。逆に、そういう人たちが出てくる段階になれば、CAAKはいつ終了してもかまわないということなんだと思いますね。
例えば、CAAKに関わっている松田達さんは、はじめは私が大学のときにやっていた研究会に参加したことで知り合いました。その後、松田さんも自分で建築の研究会をたちあげて、そちらの研究会のほうが長く続いていました。そしていまはCAAKで一緒にやっているわけです。いまは中心メンバーとして私と林野、吉村さんと松田さんの4人がいるけれども、そのほかに一緒にやっているスタッフの学生たちはたくさんいますから、彼らが自分たちで研究会を起していけるようなところまではいけるといいなと思っています。実際に彼らはプラットホーム展のほうでは、すでにプロジェクトの中心メンバーとしてやってくれています。でももうちょっと時間はかかると思いますが。» |
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寺町の町家でのパーティー |