Renovation Interview 2007.11.22
《孤風院》からの風景──オーセンティシティへのオルタナティヴ
[座談会]髙木淳二×木島千嘉×倉方俊輔 進行:新堀学
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オリジナルがオリジナルではないこと
新堀 そもそも修復というのは程度の差はあれ捏造がともなうものです。捏造というと言い過ぎかもしれませんが、行為の結果としてはあたりまえですがひとつの状態しか選べない。その状態への決断において、オリジナルへ戻ろうということは必ずしも絶対的なものじゃないですよね。
倉方 《孤風院》のオリジナリティは「オリジナルがオリジナルではない」ということですよね。ル・コルビュジエの《300万人のための現代都市》でも、保存すべきものをしっかり分けてそこだけ残しています。いわゆる「保存」というのは、建物の竣工年を確定するわけです。実際には数十年、数百年かけていまの形になっていても、過去のいずれかの時間を仮想して、それがオリジナルということになります。いわゆる「保存」とモダニズムは相対するものでなくて、意外と相性がいいわけです。「オリジナルがオリジナルではない」というのは、そんなモダニズムと「保存」の補完関係とは違っています。そのようなオリジナリティが、いわば装置のように《孤風院》に埋め込まれている。学生は半ば無意識にその思想に動かされているのであって、ここではそうした行動をとらざるをえないというところに、木島さんのデザインの効果があると思います。
倉方俊輔氏
髙木 確かに建物は完成した時点がオリジナルというのが一般的で、それを否定するものではないけれど、そんなものはたいしたオリジナルではないと木島さんは言い切っています。だから木島さんは建築の持っている力を物凄く強く信じた人なんだと思います。もっとロング・スパンの話を考えていましたから、木島さんというパーソナリティから生まれた《孤風院》としてのオリジナルな形態については、たまたま1970年代にひとつの形として登場したくらいのものです。さきほどおっしゃたように保存についてはそれ自体の概念を見直したほうがいいと思います。
新堀 お二人のおっしゃる「保存を考え直す」というのは、そもそも保存を成立させている、ある種の虚構ともいえる過去を製造する仕組みを考え直すことかもしれません。
倉方 「オリジナルがオリジナルではない」なんて言うと、単なる相対主義と混同されかねませんが、それによって外形の保存では隠されてしまうような、絶対的なものが逆に浮かび上がってくることもあるわけです。それはやはりモノそのものでしょう。ここでは「オリジナルがオリジナルではない」状態を求めるための乱暴さがある一方で、すくい取っているのはモノそのものの存在感です。柱頭や装飾に当時の人たちの、いまでは理解不能な心境や労働がどれだけ込められているかということは「洋風建築保存」であってもやはり感じられますよね。それが《孤風院》では全開になっている。例えば、この目の前の持送りが、モノそのものとして迫ってくるわけです。オリジナルのピカピカの状態ではなく、塗装なんか剥げて、歳月が積み重なっているからこそ、オリジナルの熱が奥から浮かび上がってきます。
なにをどう保存するかという選択肢はいろいろあるでしょう。でもやはり出発点はモノだろうと思う。歴史的位置づけや理念的解釈といった、外からというか現在からの理解をどうやったって超えてしまうような保存のあり方、それが木島安史さんが発見した「保存」の価値ではないでしょうか。
もうひとつ言うと、いまここで行なわれている《孤風院》という行為は、イメージ的な保存へのアンチテーゼなのだと考えています。さきほど、ル・コルビュジエは《300万人のための現代都市》において、保存すべきものを指定しておけば、あとは全部開発していいのではないかという考えをとったと言いました。これは現在的なやりかたですよね。たとえば東京の丸の内では、東京駅だけを最初の綺麗な状態に復元修復して、ほかは全部超高層にしようとしています。例えば、デベロッパーだって開発一辺倒ではなくて、これは残すべきだということになったら、それはきれいに残すでしょう。それは、ル・コルビュジエの思想のある部分をきちんと継承していることになります。
モダニズム思想は絶対的なものでなくなっても、モダニズム「保存」のほうは大手を振っている。それはまた、「記憶」というキーワードを味方につけて、強いのです。《孤風院》の事例はモノそのものの価値をどうやって残していくかということで、こうした流れに対峙しているはずです。
柱頭と持送り
木島 復元するという言葉は、保存と等価にとらえがちですが、やっぱりある意味でリセットに近いですね。保存としては、いろいろな人が継承し、手を加えていって、地層みたいにその痕跡が時々見え隠れするその厚みに意義がある。痕跡を消さずにあるいは消しきれずに重なって、いろいろな価値観や時代性が同時に混在した状態でここに在ることが、モノの魅力になるのだと思います。
《孤風院》は熊本大学構内から移してしまったので、街並とは切れているけれども、明治に建設されたモノが、その後ついた傷や加工の跡も含めて存在し続けてきたことに継続性があるように思います。蓄積なり記憶なりが受け渡されていくために、モノが伝達役としての役割を担っているのでしょう。
さきほど倉方さんが相対主義とおっしゃっていましたが、父はポスト・モダニズムの流れのなかでも、特に西洋の哲学体系以外の価値観に基づく世界があるということにとても意識的だったような気がします。
倉方 《孤風院》に埋め込まれているのはカタチじゃなくて、やはり思想ですよね。それは若い人も直感的に分かるはずでしょう。消されてリセットされたものがおもしろくないということは。例えば、若者が集まる場所などに昔の、建築的にはたいしたことのない普通の民家の素材とか内装を遊びながら変えたようなショップがあったりする。それが、なんとかヒルズよりも魅力的に映るわけです。埋め込まれたものを改造して、オリジナルではないけれどもそっちのほうが魅力的だという直感が現われているのだと思います。»

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