プロローグセッション
▲原田敬美氏
●港区の体験――小学校のコンバージョン
港区の体験では、旧赤坂氷川小学校のコンバージョンからお話します。旧赤坂氷川小学校は、地元の方にとっては非常に思い入れのある場所です。ここはご多分にもれず、子供の数が減って小学校が統廃合されました。一時そのまま廃校の状態で置いておかれたのですが、赤坂地域には老人ホームがないため、これからのニーズに合わせて特別養護老人ホームにしようということなりました。この小学校の躯体をそのまま使って老人ホームにコンバートしようというわけです。当時はコンバージョンなんていう言葉はなじみがなかったのですが、躯体をそのまま使って老人ホームにつくり替え、そこに増築して児童館も併設しようということになりました[fig.1-01]。木々を残して屋上の緑化もして、環境というテーマを含めてやりました。1階には児童館があります。児童館といいますと皆さん小学生が放課後遊びに行くところ、時間を過ごすところとお思いでしょうが、ここでやったのは、都心の中・高校生のための場所で、彼らの居場所をつくるということでした。土日も夜の8時までやるというユニークな児童館を開いたところがみそです。そしてそこで小・中学生や高校生とお年寄りが交流する場所をつくりました。この建物だけでいろいろな話ができるのですが、今日はコンバージョンの話ですので、その観点からお話します。単純な言い方をすると、5000平方メートルくらいあるこのコンクリートの建物を壊すと、おそらく3000トンから3500トンくらいの廃棄物が出ます。港区は環境に優しい都市ということで、例えば、全国で唯一環境アセスメント条例を持っています。私も環境アセスの委員をやって環境行政を一生懸命やっていたのですが、この建物を壊すと、コンクリートのゴミで5トントラックだったら700台必要になる。ここは道幅が狭くて6メートルですから、こんなところをトラックが700回も出入りするのは交通安全上もよくない。それで躯体をそのまま使うという、今言うところのコンバージョンをやったわけです。そして新しい施設のニーズに応えるために左側の部分は増築して、あと1階は児童館、2階と3階を特養にしたわけです。屋上はプールでしたが、今は防火用水にしていてプールとしては使っていません。建物の裏には体育館があるのですが、屋上緑化をして、そのまま地域の体育館として使っています。いわゆる木のフロアで、バスケとか、柔・剣道場として使っていまして、実は私も月1回柔道の稽古に参加しています。幸いこの小学校の構造のスパン割りと特別養護老人ホームのスパン割りを合わせることができました。
これからの時代の特養は個室対応なんですが、とりあえず入所待ちの方が300人から400人いらっしゃるので4人部屋をつくらざるをえなくて個室と4人部屋の両方をつくりました[fig.1-02]。ちょうど教室を2つに割ると1部屋とれますので、中は和風のイメージです。これはたしか100人くらい収容できる施設ですが、これによって特養の入居待機者を相当減らすことができて大変好評です。今港区では、だいたい300人くらいの方が待機しています。これをどう読むかということなんですが、港区の高齢者は3万人いまして、300人だと1パーセントの方が待っているわけですが、スウェーデンには高齢者が約150万人いて施設待ちの方が20万人います。ですからスウェーデンでは高齢者のうち15パーセントが施設への入所待ちしているわけで「福祉の天国といわれている国が15パーセントなら、1パーセントの港区は天国じゃないか」と私は抗弁していました。昔は子供がたくさんいたから小学校がたくさん必要だったのですが、子供の数が減った今は、数が増えているお年寄りのための施設につくり替えたということで、結果的に、港区の施設では第1号のコンバージョンの施設になりました。残念なことに、こういう大規模なコンバージョンは、区政のなかでの展開は今のところほかにございません。
fig.1-01―02

●ニューヨークの住宅改善運動
次はニューヨークのサウスブロンクスの住宅改善運動で取材した建物の例です。行ったのは今から10年ほど前なのですが、ニューヨークには仕事や観光で行かれる方も、こういうところに足を踏み入れられることはないと思います。サウスブロンクスはニューヨークで一番有名なスラムで、とても一人で歩けるような場所ではありません。私はたまたま、ニューヨーク市の関係者の案内でこの地区の見学をさせていただきました。この地域は、黒人とかプエルトリコの方が多く住んでいる地域です。犯罪も多くて、街をなんとかしようという運動が起こりました。町の建物はこの建物を見てもおわかりのように立派なものが多く、歴史的建造物もありまして、戦前は裕福な人たちが住んでいました[fig.1-03]。戦前まではそうだったのですが、ちょっとしたきっかけで黒人が住みつくと、白人が嫌がって出て行って、一気に黒人の街になったわけです。
私が初めてアメリカに留学していた1970年にはサウスブロンクスには9万5000人住んでいました。それから10年経った80年には3万2000人に急減してしまったそうです。殺人事件のほとんどがここで起こっていて、当時ニューヨークで殺人事件で年間2000人、1日に5人殺されるという状況でしたが、その大半がこういった場所で発生していたわけです。街の有力者がこれではいけないということで、街から逃げ出さずに留まってみんなで改善していこうとがんばったわけです。
fig.1-03

ここには、1978年にニューヨーク州に認可されて設立された「まちづくり公社」という団体がありまして、いわゆるアフォーダブルな住宅、つまり手頃な家賃で住める住宅をつくっていました。最近ニートという言葉をよく聞きますが、このあたりには仕事に就けない中学や高校を中退したような若者がうろちょろしていますから、そういう人たちに声をかけて内装職業訓練をやったわけです。もちろんプロの大工さんも入っていますが、簡単な手仕事は地元の若者を使ってこのコンバージョンをして公的住宅にしました。内訳を説明しますと、まちづくり公社は、約1億ドルつまり100億円の投資で47棟の建物を入手して、約2000戸を修復、住宅1000戸を所有・管理しています。750人の若者に教育や訓練をして、ホームレスやニートのための施設や住宅をつくったりしたということです。こういったまちづくり公社には、民間企業が寄付をしており、寄付の一覧表を見ると、当時の東京銀行ニューヨーク支店も寄付をしています。
オフィスから公的住宅にコンバージョンした例をお話しますと、写真に写っている方が町会長さんで、もう一人の白人は、有名な大学の建築学科を出てスラムのまちづくり改善運動の組織に就職してがんばっている人です[fig.1-04]。日本ではまだこういう組織ができあがっていませんが、いずれこういうNPOのようなところに東京大学や早稲田大学などを出た学生さんが就職するといいんじゃないかと思います。
ぶらぶら街を歩いているとこの女性に出会いました[fig.1-05]。このプエルトリコの人もこの住宅に住んでいらっしゃるこの地区の町会長さんです。たまたま通りがかった私が「コンバージョンしたアパートを日本から取材に来た」といったら、「私の家に寄っていきなさい」と誘っていただき、コンバートした家を見せていただきました。
昔裕福な白人が住んでいた街の様子がわかりますが、こういう立派な住宅がたくさん並んでいるのがサウスブロンクスです[fig.1-03]fig.1-06は、自助努力で改善したお宅のリビングダイニングキッチンです。写真に写っている方は町会長さんのお母さんで、多分プエルトリコからやってきたのだと思います。大変失礼なんですが、ここは所得水準でいうと下の下の人たちの住宅です。ところがこれが日本だったら、公団住宅のかなり上の部類だと思います。
日本は経済大国といわれていますが、その住宅水準はまだまだ低いというのが率直な印象です。裏庭には、安全に子供たちが遊べるようにバスケット・ゴールなどがあります。以前は、麻薬の取り引きがあったことで有名な建物ですが、ニートの高校生を中心に何百人か投入して住宅にコンバージョンしたわけです。これは住民参加によるコンバージョンの例で、日本でも今後はこのような例が出てくるのかなと思っています。
fig.1-04―06
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