【 column 】

敷地の延長としての建築/プログラムを内在する敷地──新堀学

敷地というリソース(資源)に対して、それを生活に使用することを可能にするための仕組みとして建築が導入されるという視点から建築を考えてみると、建築計画とは敷地(空間)の利用計画にほかならない。
敷地の利用方法が変化することが、建築行為の可視化として現われるに過ぎないということからいえば、すべて敷地内の建築は「敷地の延長」として考えられるだろう。

そう考えてみると、この《メガタ》の形態が、「結果として」母屋のデザインと切断されているかのように見えたとしても、「敷地の利用」というこの建築自体の動機からすれば、それは二次的な問題に過ぎないといえよう。むしろその動機に忠実に従ったからこうなったのだという論理の帰結が、余分な恣意性を持つことなく、ここでの生活に押し付けがましさのない開放性をもたらしていることにつながっている。

しかし、だとしても建築は敷地の余白を利用するために既存のものからの影響効果によって空間をかきとるのだという単純なルールは、あまりにも一般化されすぎ、この空間の形態の根拠として、本当にこれを規定しきることができているのか不安になるほどだ。
しかし、でき上がった空間は紛れもなく建築家の空間であった。
では、ここでの建築家の存在はどこにあるのだろうか。

結論から言えば説明のなかで具体的には示されていなかったが、ヴォリュームを決定するモデルとして引き合いに出された「お好み焼きの生地」の粘度がそれである。
たとえば、粘度の低い生地であれば、当然ながら既存の境界、存在物に忠実な輪郭を描くことになるだろう。またこれ以上に粘度の高いものを想定すれば、余白の形状への追随よりもそれ自体の表面張力が卓越して、現況の敷地とは無関係に見えるオブジェになることが想像される。
今回、建築家によって選ばれた「粘度」はすなわち、敷地や既存の存在物といった対象への距離であり、またそれら対象の抽象化/建築化の深さを表わしている。
その抽象度は、建築行為をプログラムとして扱うために必要なものだった。


建築化された余白
リノベーションという視点が、「事後」としての「立場の選択」でもあることを認識しつつ、その可能性を将来にわたって有効化することが、この《メガタ》の生成プログラムには組み込まれている。
プログラムは再び利用可能なのだということを念頭におくならば、この《メガタ》を形作ったプログラムは、母屋の寿命がきた時点、あるいはこの敷地が現在の形でなくなった時点でも適用可能であるはずだ。方法として一回性の解決を求めるのではなく、リノベーションをより普遍的な方法論へと昇華させることへの試みとして、この《メガタ》の「プログラムへの意思」は興味深い。プログラムであることを貫いた結果としてこの敷地はそういった「プログラムを内在した敷地」へとリノベートされた。

そして再度「粘度」の件に立ち返ると、この「粘度」が生み出した第三の空間は、母屋と増築の間に存在する隙間である。
プロフィリットガラスが取り囲むこの隙間は、母屋の80年と増築部のこれからの80年を結ぶ空間であり、同時に、この敷地とともに永久に残されるであろう「余白」の空間である。《メガタ》のプログラムの真の成果はこの隙間の風景であり、敷地は単なる余白ではなく建築空間へと昇華され、言い換えればプログラムによる敷地の建築化が達成されている。