Renovation Interview 2008.9.30
美術と建築を横断し、社会を知る──金沢におけるCAAKの試み
インタビュー]松田達 聞き手:新堀学+倉方俊輔
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新しいタイプの建築家
新堀学 《金沢21世紀美術館》ができて金沢のまちは変わりましたか。
松田達 金沢は、いままで建築よりもまちに力を入れてきた気がするんです。たとえば、金沢大学に建築学科はありませんね。いわゆる建築学科は、唯一金沢工業大学にあるくらいです。あまり積極的に現代建築をつくろうという雰囲気はなかったし、おそらくあまり理解もなかっただろうなかで、2004年にいきなり《金沢21世紀美術館》ができました。それはもちろんいいことだと思っていて、金沢でも現代建築が身近な存在になったように感じます。
僕は、東京大学の都市工学科に在籍していたことと、その後、フランスでパリ都市計画研究所というところに一時期いたこともあって、都市にも関心を持っていますが、金沢というところは、都市と建築がバランスよく共存できるまちになるんじゃないかという感じがしています。まだ直感にすぎませんが。だから、僕自身は建築をつくりたい気持ちはもちろんありますけれど、金沢のまちに貢献したいという気持もありますね。
松田達氏
倉方俊輔 いわゆる「東京から地方へ」拠点を移して、個々の建物を設計しながら都市に積極的に関わっていこうという姿勢に共感します。ジャーナリズム的にも注目される職能だろうと思います。けれど、それだけだといままでにもあった建築家の意識と捉えることもできそうです。いまの松田さんの話を受けて、さらに聞いてみたいと思ったのは、でもCAAKをはじめとする活動というのは、それだけではないだろうという部分です。
CAAKという名称は「Center for Art & Architecture, Kanazawa」の略で、アート(Art)と建築(Architecture)が共に入っています。金沢は《21世紀美術館》という素材を用いて、アートと建築が接点を持てる場所だと思われているのではないでしょうか。金沢のまちのこれからのありかたとして、個々の建物を設計するだけではなく、アートとの関係でなにが可能と考えられていますか?
松田 まず金沢は全国に先駆けて、ヨーロッパ発の創造都市(クリエイティブ・シティ)の考え方を取り入れようとして、2001年から金沢創造都市会議を隔年開催しています。プレ・シンポジウムは1999年にはじまり、その火付け役の一人は当時金沢大学経済学部の教授を務めていた佐々木雅幸さんだったろうと思います。アートと都市を結びつける活動の土壌は、そのころから育っていました。アートに対する理解が、少しずつ市民に浸透していったという過程が大事だと思います。
例えば石上純也さんのように、建築が極限でアートの領域に転じるような状況は起きにくいのかもしれませんが、もう少しソフトな建築とアートの相互作用が生まれやすい環境になってきていると思います。建築とアートの掛け合わされた積集合ではなく、建築とアートがそれぞれ共存し合うような和集合的なイメージを持っています。
倉方 もうひとつお聞きしたいのは、リノベーションとの関係です。これもCAAKの活動の金沢らしさに思えます。町屋のような従来からあった素材をリノベートして使っていくような方法と、新築でつくるという方法の、いずれかがまちに関係するのではなくて、両者がともに接点を見出して融合できる可能性が、金沢のまちにあるのではないでしょうか。
建築のほかに、一方にアートがあり、他方に保存やリノベーションの世界があって、それらは他の場所では分断されがちなのに、金沢では自然につながる契機がある。それが場所のポテンシャリティとなっている。そうした状況のなかで、建築家としてなにか新しいタイプの活動が可能だという直感を持たれているのではないかと思います。
松田 金沢のポテンシャリティとして、あとは、地理的に小さいことがありますね。たとえば、いま倉方さんがおっしゃったような、アートや建築、リノベーション、都市といったものが融合しやすいためには、コンパクトであることがとても重要だと思うんです。金沢では犀川と浅野川の内側でいろんな物事が完結しているようにも思えるのですが、それが単に閉じているというわけでもなく、逆にいろいろなことが次々と連鎖反応するイメージがありますね。CAAKでやっていることも意外にはやく連鎖反応して、新聞に取り上げてもらったり、金沢のケーブルテレビに出演させてもらったりして、そういう反応が意外にはやかったという気はします。噂もはやく回るんですよね。
それに、人のつながりが密なので、たとえば市の都市計画に携わっている方と話すような機会もありました。都市を動かしている人々のポジショニングも、ちょっと顔を出しているうちに、なんとなくわかってくる。会おうと思った人にはだいたい知人のだれかとつながるので、なにかやろうと思ったときの機動力は、東京に比べたら圧倒的にはやいなと思います。
僕の中では、建築とアーバニズムのどちらに重きをおくかと考えると、迷うことなくそれは建築なのですが、でも、金沢のまちづくりとか都市計画みたいなことはやってみたいなと、パリにいたときから考えていました。都市計画というのは基本的には、都市計画者が、計画物を計画しますから、どうやってもメタレヴェルになるというか、マスタープラン的な、計画するという行為から逃れられないような気がします。だから計画論から一歩先に進むには、実際に住んでるところで関わるというのが、一番ありえるかなと思うんです。
一方で、金沢の路地裏にあるバーなんかで地元の人たちと話していると、昔の金沢のことがものすごく重層的に聞けて、また濃密な裏の人間関係なんかも聞けたりして、都市ってこうやって見えてくるんだなと思ってちょっとびっくりすることがあります。しかもそれが金沢くらいの大きさだと、都市の成り立ちや構造に絡んでくるんです。いままでは、東京でもパリでも、他の都市ではそこまで深い話ってなかなか聞けなかったんです。でも僕が金沢の人だとわかるとすごく濃い話を、たくさんしてくれたりします。それはなかなか面白いですし、そういう経験をいくつかベースにして、都市に一気に入り込めないかなと考えています。そうやってずっと奥深くまで入っていくと、やがて金沢という都市の仕組みみたいなものというか、なにか別のかたちの金沢のロジックのようなものが見えてくるはずです。それは金沢という都市に固有なロジックではないかと思っています。必ずしもそれが言語化されるものである必要もないかもしれませんし、固定化される必要もないと思っています。僕は歴史家ではないので歴史を知りたいということではけっしてないのですが、本当に金沢と格闘するためには、金沢に住むことでしかわからないようなところまで到達する必要があると思いますし、またそうすることで、例えばアトリエ・ワンのいきいきプロジェクトとは違うような金沢を発見できる可能性もあるかと思っています。
倉方 CAAKの活動は「まちのリノベーション」ではないかと思います。建物のリノベーションは、最初に建物の調査をして、どの部材が使えるか調べて、それから一番いい部分を再構築するように計画していきますよね。それと同じで、まちがどういう成り立ちになっていて、どこが一番使えるところでどこは替えるべきかを把握して、発見的に手を加えていこうという取り組みが「まちのリノベーション」ではないか。新築に対するリノベーションのように、松田さんが言われた「マスタープラン的」なものに対する「住んでるところで関わる」手法は「まちのリノベーション」と呼べるような気がします。
CAAKにそんな共通の方向性があったとしても、メンバーの間で「まち」の捉え方が同一ではないのかもしれません。そこからいろんな面白さが出てくるんでしょうね。アーバニストとしての松田さんは、金沢のまちの「新たな」捉え方をまず発見できないと、次に進めない。それがあってはじめてリノベーションですから。その捉え方を具体的に求めていらっしゃるようにみえます。
松田 倉方さんがおっしゃった「まちのリノベーション」には、二つの段階があるのかもしれません。 どちらもマスタープラン的ではないのですが、ひとつはいわゆる一般的なリノベーションで、ディアグノスティック(診断的)にまちを見る見方です。患部を知り、治療すると。でもこれは、結局どのまちにもいつでも適用できるような一般的な治療法を前提としていると思います。まちに特有の治療法を見つけているわけではないような気がするんです。また都市にとっての患部がなにかということが、一義的に決められてしまうような立場です。
それに対して、治療法そのものがつねに変わり続けるような、つまり進化し続ける免疫系のようなシステムによって、まちに入り込んでいかなければいけないような立場があるような気がします。例えば、古い町家は、近代化の過程では排除され、逆に最近見直されつつあります。つまり、まちにとって町家が患部かどうかということに関しては、判断が変わったということになります。こういう変化は、町家に限らず、まちのさまざまな部分にとってありえるのではないかと思います。だから、医者としてまちを診断する立場というよりも、自分自身がまちの一部となってしまっていて、住んでいるうちに、悪いところと思っていたところが実はよいところだったと発見したりするような、患部の判断の変化そのものを受け入れるような、そういう立場のリノベーションがあるような気がしています。治療すべきかどうかは、必ずしも医者の立場からは一方的に決められないというような立場です。遺伝子操作や妊娠中絶について、医学だけでは正しさを判断できないように、まちにとってなにをすべきかということを考え続けなければいけないという意味では、バイオエシックス(生命倫理学)にかけて、アーバンエシックス(都市倫理学)的な問題だともいえるような気がします。さきほど僕が言おうとした、都市の奥深くにまで入り込むという意味は、そういう立場に近いのではないかと思っています。これがもうひとつのリノベーションです。あえて言えば、CAAKは大学病院の勤務医というより、もっと地元の町医者的なイメージですかね。世間話ができて、融通が利くと。考え込んでばっかりいても仕方ありませんから、僕は一方で町医者にもなるわけです。
また、別種の試みとして、例えば一緒にCAAKをやっている鷲田めるろさんは、アートの可能性によって、リノベーションについての一般的な視点を乗り越えようとしているのかもしれませんね。 »

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