Renovation Report 2005.11.18
セントラルイースト東京2005
「駅前一戸建て住宅ビル」レポート
田路貴浩(明治大学助教授)

イントロダクション
Introduction
2005年10月1日から10日まで、日本橋・神田地区において「セントラルイースト東京2005(CET05)」が開催された。神田・浅草・日本橋・八丁堀は、かつては江戸の下町として賑わったものの、今では空き店舗、空きオフィスが点在し、地域の活力も魅力も低下している。今年で3回目となるこのイヴェントは、アーチストや建築家たちによってこうした空室をギャラリー化し、街の個性を再解釈し再活性化しようという試みである。
筆者も研究室の大学院生5名のほか、建築家の南泰裕氏(アトリエ・アンプレックス)、樫原徹氏(樫原徹設計事務所)も加わったチームを編成し、仮想プロジェクト「駅前一戸建て住宅ビル」を制作し、展示を行なった。また、会期中にはシンポジウムも開催した。会場となった「ちよだプラットフォームスクエア」はもと「千代田区中小企業センター」を民活でリノベーションした施設で、ベンチャー企業支援のためのさまざまな施設が整備されている。われわれに用意された会場は、外部から閉じられた密室ではなく、カフェとエレベーターに挟まれた1階エントランスロビーで、オフィスで働く人々や来訪者など、通りがかりの多くの人々の目に触れることになった。

セントラルイースト東京2005(CentralEastTokyo2005[CET05])開催概要
期間=2005年10月1日(土)〜10月10日(月・祝)
展示場所=千代田区、中央区、台東区を中心としたエリアの空き物件、空き地、店舗、学校、寺社、飲食店、地下道など
主催=セントラルイースト東京実行委員会
URL=http://www.centraleasttokyo.com/
「駅前一戸建て住宅ビル」プロジェクト
ポスター

コンバージョンから
建替えへ
Convertion or Rebuilding
プロジェクトの対象は神田地域に多く見られるオーナー住居を含むオフィスビルとし、その建替え案を制作した。コンバージョンではなく建替えを提案したのは、地域再活性化の手段としてコンバージョンには限界があることを痛感していたからである。これは今回のプロジェクトに先立つ調査から得た結論である。
神田区のオフィス併用住宅
わたしたちの研究室では、2003年に千代田区都市計画課の委託で神田・麹町地区の空きビル実態調査を行なった(千代田区まちづくり推進部都市計画課・明治大学「空き業床実態調査報告書」平成16年3月)。当時は2003年問題が取りざたされたまっ最中であった。街を歩いて見ただけでも、窓ガラスには「空室」の張り紙がいたるところに見られ、このままゴーストタウン化するのではと思われるぐらいであった。調査の目的は、空室となっているオフィスビルの特性を発見することであった。建築年、階数、面積、階高、駅からの距離などの属性について調べたが、結局、空きビルとなる原因を見いだすことはできなかった。古いビルも新しいビルも、広いビルも狭いビルもおしなべて空きビルとなっていたのである。
千代田区の都市計画課はこの調査と平行して、空きビルを学生マンションにコンバージョンするモデル事業を推進しようとしていた。これは政府の都市再生本部による「全国都市再生モデル調査」にも採択された。しかし、担当者の熱心な努力にもかかわらず、1棟のコンバージョンも実現できなかった。その理由はいろいろあるが、最大の原因は、「新耐震設計基準」(1981)以前に建てられた建物のコンバージョンを試みたからであった。コンバージョンが可能か否かは、耐震補強が必要か否かによってほとんど決定される。2003年当時、オフィスから住宅へのコンバージョンは徐々に実現しつつあった。われわれの調査地域内の猿楽町にも、平和不動産と竹中工務店によってスタジオタイプのコンバージョンが実現した。もちろんこれは「新耐震」以後の物件であった。
「新耐震」後の建物であれば、住宅への用途変更も不可能ではない。また、2003年問題の荒波が引きつつある最近では、「空室」の張り紙は以前より減少しているように見える。大企業の最新オフィスビルへの転居は、その空いたオフィスへの転居、またその空きオフィスへの転居と、玉突き現象を生んだが、ここにきてこうした現象も沈静化しつつある。しかし、「新耐震」以前の古いオフィスビルは取り残されてしまった。こうしたビルは高度経済成長期に建てられた築40年前後の建物であり、オーナー住居を含んでいたりする。住民の高齢化と建物の老朽化が同時に進行しているのである。
「オフィス併用住宅」に居住する人々は古くからの神田の住民であり、神田の文化を支えてきた人々である。文化というものは地域の中に浮遊しているものではない。人が文化なのである。ところがこうした住民たちは、世代交代にともない土地を手放して郊外に転居し、かつての住まいにかわって投機目的のワンルームマンションが建設され始めている。不動産投資が加熱しているようだが、住民の立場からすれば、それは巨大資本による地域文化の破壊を意味するものでしかない。こうした状況のなかで、住民が住み続けることはいかに可能なのか。高層ビルの谷間で、どのように人間的な居住環境を確保できるのか。コンバージョンではなく、建替えが検討されなければならない。それも小さくても土地を所有し、長年にわたって地域と関係してきた住民が、世代交代しながら住み続けられる住宅が検討されなければならない。こうしてわれわれは「駅前一戸建て住宅ビル」をスタディすることになった。

プロジェクト
Project
駅前一戸建て住宅ビル
わたしたちはまず神田駅周辺を踏査し、オーナーが居住するビルの存在を確認することからはじめた。国勢調査によれば、神田駅周辺地域に居住する世帯の4分の3は「持ち家」に住んでいる。もちろんすべてのビルにオーナーが居住するわけではないが、相当数の「住宅ビル」が存在することを意味している。たとえば「鈴木ビル」「田中ビル」など、所有者名をつけたビルのほとんど最上階には、オーナー本人が住んでいる。われわれのプロジェクトはこうしたビルの建替え案である。
スタディの様子
敷地は神田地域に典型的な敷地、または特異な敷地を5つ架空に設定した。都市や地域の将来を論じるとき、全体的なプランを定め、それを個々の建物に落とし込むやり方が一般的である。しかし、わたしたちはそれとは逆に、まず個々の建物のあり方を詳細に再吟味することから始めた。現代における都心居住を可能にする条件を洗い出し、その方法を探った。都市を俯瞰的視線から観念的に論じるのではなく、居住者の視線から捉えることをめざしたのである。

3エレメント・5コマンド
わたしたちは人間が居住のために必要不可欠とする条件についてあらためて考えなおしてみた。その結果たどりついたのが、〈自然・空間・静けさ〉の三つのエレメントである。ル・コルビュジエはユニテ・ダビタシオン(1952)のコンセプトを説明するなかで、「太陽・空間・緑」および「静寂」を人間に必要とされる環境の要素であることを強調している。誰が考えてもこれらは人間にとって〈居住の条件〉である。田園でも、都市でも、人間はこうした要素を不可欠としている。
これら基本エレメントは都市建築においてはどのように保持しうるだろうか。それらが不可欠であることは同じでも、田園のなかに建つ住宅とは建物のあり方が異なるだろう。われわれが「住宅ビル」をデザインするうえで注目したのは、〈階段〉〈道路斜線〉〈プライバシー〉〈ファサード〉〈屋上〉である。これら五つのポイントに対する〈5コマンド〉が、三つのエレメントを保持するようにデザインを方向づけることになる。
スタディ模型

1)明るい階段
狭くて暗い空間になりがちな階段室に光を取り込み、そこを居室のための採光装置として利用する。
2)キレイな斜線
道路斜線によって斜めに切られる部屋は、しばしば使いづらい部屋としてネガティヴに扱われている。しかし逆に、斜めの壁を空間に変化を与えるきっかけとして積極的に評価する。
3)静かな部屋
生活感が外部にしみ出すことによって街路は活気づけられる。しかし、外部の喧噪に対して室内は静寂が保たれなければならない。
4)厚みのあるファサード
ファサードに空間的な奥行きを与えることによって、視線や光を調整することができる。また、材料の経年変化によって建物外観に時間の厚みを与えることもできる。
5)第二の地面
ビルの屋上はもっと活用されるべきである。最上階に住む居住者にとって、屋上はプライベートな庭となりうる。都心の空中に〈庭付き住宅〉が可能となる。

これらはル・コルビュジエが提示した近代建築の五つの要点(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)を、「住宅ビル」へ翻案したようなものである。個々のプロジェクトではこの〈5つのコマンド〉をガイドとして、具体的な形態を検討していった。以下、5人の学生たちによってまとめられた5つのプロジェクトを紹介しよう。

〈狭小タイプ〉
伊藤拓郎案。神田地域には江戸時代につくられた長屋の地割りが今も残っている。これらは間口1間半ないし2間で、車が1台か2台駐車するのがやっとという広さである。こうした土地はつぎつぎに地上げされ、広い土地に集約される傾向にある。しかしその一方で、小さな土地に住み続けることを選択する人々もいることは確かである。
このプロジェクトは間口2間、奥行き6間の敷地に二世帯住宅を提案している。都心の狭小敷地に可能なかぎり良好な生活環境をえるために、壁・床を「めくること」が考案された。建物と建物のあいだにはわずかなスキマが残されるが、それは風が通りぬける重要なスペースでもある。また、微弱ではあっても光が射しこむ。めくれた壁は建物が呼吸し、光を取り込み、室内に広がりを与える重要な「くぼみ」となっている。前面道路に対してめくれた壁は、歩行者から室内への視線を遮り、空へと開いて光を採りいれる。道路斜線に沿った斜めの外壁とめくれた壁は一体となって「厚みのあるファサード」をつくり、光と陰の表情を生みだす。

〈正方形タイプ〉
沼尻真由美案。多くの古い市街地の例にもれず、神田の街区は短冊状に地割りされたため、正方形の敷地はまず存在しない。ただし、街区の角地にまれに正方形の敷地が見いだされる。1階は店舗、2階から6階は事務所、7・8階はオーナー住宅として構想されている。
この計画では「厚みのあるファサード」を具体化するために、外壁から1間内側に柱を配置し、1間幅の外周部(ペリメーターゾーン)とその内側の室内をあらかじめ設定している。隣地に面する外周部には階段、エレベーター、水廻りなどがセットされる。一方、道路に面するゾーンは、明るい縁側のような空間で、打ち合わせスペース、休憩スペースなどに供される。外壁はガラスで覆われているが、ペリメーターゾーンの人の動きが街路を活気づけるだろう。
7・8階はオーナー住宅である。7階のリビングゾーンは奥深いテラスに面しているが、8階の個室は外壁にわずかな開口しかもたない。その代わりに、トップライトがもうけられ、屋上庭園から採光するようになっている。

〈うなぎの寝床タイプ〉
比良田哲平案。間口が狭く奥に長い敷地は神田にも多く見られる。京都の町屋などでは奥行きの中程に坪庭がもうけられるが、この敷地はそこまでの奥行きをもたない。そこで敷地の最奥部に屋外階段をもうけ、ここを室内に光を取り込むための光庭としている。建築基準法では、避難階段は室内から壁で隔絶するように定められている。室内が火事になっても、屋外階段に出れば安全に避難できるためである。しかし、このためにビルにとって階段は避難のためだけの消極的な場所とされてきた。不燃材や消火装置の発達でビル火災がほとんどなくなった今日、階段のあり方は考え直されてもよいのではないだろうか。
計画案は1階が店舗、2-4階がオフィス、5-8階がオーナー住宅である。オフィス棟のうえにオーナー住居が浮かんだ構成になっていて、オフィス棟の屋上は住宅の庭になっている。こうすることで、住居はオフィスから切り離され、雰囲気も変わり、プライバシーが守られる。

〈路地タイプ〉
永田裕久案。江戸時代の路地は3尺(90cm)の幅だった。しかし、大正8年に定められた建築物法によって、9尺(2.7m)に拡幅された。現存する路地の多くはこれである。今日では前面道路は幅4m必要とされるが、「長屋」の道路であれば幅員2mでよい。「長屋」とは各戸がそれぞれ直接外部への出入口をもつ集合住宅である。「長屋」によって神田の路地を新たに再生することが可能となる。
この計画は路地をはさんだ両側8戸の長屋の提案である。2mという狭い路地をはさんで住戸が配置されるため、窓は互いに向かい合わないよう、注意深くずらされている。また、路地が薄暗くなるのを緩和するために、路地壁面の上部は斜めに傾斜している。
それぞれの住戸は4層+ペントハウスとなっている。部屋が縦に積み重なるため、テラスや吹き抜けなどによって、上下階につながりをもたせている。テラスにはすこしでも多くの光を導くため、壁は上方に開くように傾けられている。道路斜線によって切られる外壁とテラスの斜めの壁によって、険しい岩山のような特徴的外観を呈することになった。

模型写真すべて(c)Nacasa & Partners
〈長家タイプ〉
田代朋彦案。この計画は間口が30m近い敷地に対するものである。このような敷地はごくまれではあるが存在する。ウナギの寝床的敷地が2面ないし3面道路に接するような場合である。
計画案では間口の中心に階段・エレベーターなどのタテ動線が置かれ、その両側に各階2戸の住宅が配置されている。2-4階は賃貸住宅、5・6階の道路斜線で切られた三角柱のヴォリュームがオーナーの二世帯住宅である。三角柱はところどころ切り取られ、庭になっている。
各階は折り曲げられたひとつながりの壁によって室に区分けされる。その結果、外観には壁面と開口が交互に現われることになる。開口は場所によって窓であったりテラスだったりし、生活の様子が微妙に外部ににじみ出すようになっている。
折り曲げられた壁のそれぞれ中央には出入口や窓が開けられていて、視線が壁を突きぬけ、部屋の風景が重なりあって見えるような仕掛けが潜ませてある。

ビルから都市へ
Toward City
神田に居住するある人が筆者に語った言葉が、記憶に深く残っている。「街がどうなっていくのかまったく分からないから、安心して暮らせない」。この言葉は根本的な問題を言い当てているように思える。
上:道路沿いのビル
中:裏通りの長屋
下:道路斜線で壁面がそろう街並み
たしかに神田は建替えの街である。火事、震災、戦災のたびに街は更新されてきた。バブル期には「戦災よりひどかった」という声があるくらい、猛烈な地上げによって更地が広がった。そしていま、不動産投資がふたたび加熱するなか、新たな開発圧力が襲いかかっている。
東京都は基本的に総合設計主義である。また、政府の都市再生本部は神田・秋葉原地域を「都市再生緊急整備地域」に指定し、民間による都市開発事業を促進しようとしている。地域に長年住んできた住民たちは、こうした行政の指針を知らず、虎視眈々と機会をうかがう資本の襲撃におびえているのである。
神田は戦後早くから開発が進んだため、建築基準法の諸規定によって、幹線道路沿いは高さ31m、8階建てのビルが建ち並び、裏通りは道路斜線で切られた壁面が意外にもそろっている。東京の街は混乱しているとよく言われるが、じつはそうでもない。案外整っているのである。こうして熟成してきた街に、総合設計による巨大なビルが出現しつつある。30mの高さのビルの隣に、わずかな公開空地を隔てて、3倍以上の高さを持つ100mタワーが建設されたりもしている。都市はいったいどこに向かっているのだろうか。ビルの容積はいったいどこまで増えていくのだろうか。

展示会期中の10月5日、神田学会の久保金司氏、神田多町のまちづくりに取り組んできた佐藤賢一氏、明治大学助教授の山本俊哉氏を招いてシンポジウムを行なった。会場は学生のほか、地元関係者の方々も含め80名ほどの参加者を得ることができた。
街の行方について議論は分かれた。都心で10坪程度の小さな敷地を所有し、地面に張りついて住み続けるべきなのか。それとも土地を集約して、広くて明るいマンションに建て替えるべきなのか。「神田らしさ」ということも議論にあがった。「神田らしさ」とは何だろうか。わたしは、それは土地に住み続ける人々のことだと思っている。再開発によって「神田らしさ」が保てるとは思えない。大規模な再開発を行なえば、古くからの住民は土地から引きはがされ、郊外に追い出されてしまうだろう。しかしその一方で、一個人が東京の中心部に小さな土地を私有することが正しいのか分からない。都心は住民のためだけのものとは言えないだろう。土地はいったい誰のものなのか。そしてその使い方は誰が決めるのか。問題の根がこのあたりにあることは分かってきた。
左:展覧会場/右:10月5日のシンポジウム

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