Renovation Report 2005.10.25
NAMURA ART MEETING
──地域のリノベーション、産業史のリソース
「NAMURA ART MEETING '04-'34 vol. 01『臨界から臨海へ』」レポート
新堀学(建築家/NPO地域再創生プログラム

イントロダクション
Introduction
2005年9月3日、大阪市の住之江区の臨海部にある造船所跡地にて、NAMURA ART MEETING '04-'34 vol. 01「臨界から臨海へ」が開催された。
昨年9月のvol.00「臨界の芸術論」に引き続いて、今年も多彩なゲストによるシンポジウムやサロンに加え、魅力的な借景としてこの地の対岸に位置する中山製鋼所の環境リサイクルの新事業展開のための高炉解体現場を見学するバスツアー、中山製鋼所記録映像の上映、工業地帯を河川から望むクルージングが行なわれ、これから30年をかけて再生するエリアプロジェクトがいよいよ本格的にスタートした。
ここではシンポジウムおよびいくつかのヒアリングにてこのプロジェクトをレポートする。

NAMURA ART MEETING '04-'34 vol. 01「臨界から臨海へ」
日時=2005年9月3日(土)、12:30〜23:00
会場=black chamber@名村造船所跡地
(大阪市住之江区北加賀屋4-1-55 名村造船所跡地)
URL=http://www.namura.cc/art-meeting/

●プログラム
・中山製鋼所 見学バスツアー[12:30/14:00]
・クルージング[ 13:00/13:30/14:00/14:30]
・実行委員によるmeeting
「NAMURA ART MEETING vol.00〜01、そして30年間の実験とは」[
15:30〜16:00]
パネラー=小原啓渡、松尾惠、高谷史郎、木ノ下智恵子
・シンポジウム:「臨界」から「臨海」へ[16:00〜18:30]
パネラー=浅田 彰×磯崎 新×柄谷行人
・DJラウンジ・パーティー[
19:00〜23:00]
DJs=南 琢也、竹内 創、上芝智裕 (Softpad)
ゲスト=功力丈弘(アイリッシュ・フィドル)& げんた(ギター)

※名村造船所は本イベントと関係ありません。

サイト
Site
上:1階平面図
下:断面図
この住之江区臨海部の木津川河口地域はかつての重工業地帯であり、現在は休眠した工場が数多く存在しているエリアである。会場の敷地はかつての造船所跡地であり、いまだ大きな上屋とドックが残っている。対岸500m先には解体されつつある製鋼所の高炉が望まれ、まさに重工業産業の作り出した風景であり、そして産業の衰退とともに滅びゆく風景でもある。
会場の敷地は1988年に株式会社名村造船所から千島土地株式会社に返還された名村造船所跡地といい、地域一帯に開発規制がかかり、土地利用の目処が立たない状態が15年ほど続いていた。所有者の千島土地株式会社は、そのころから建物を音楽スタジオ「パルティッタ」に改装し、レンタルスタジオとして貸し出しており、現在でも「パルティッタ」は地元のミュージシャンに愛されつづけている。
2004年、造船所当時のドック、建物が残る敷地や、木津川対岸の中山製鋼所の風景に魅せられたアートコンプレックス1928プロデューサー・小原啓渡が「アートの実験場に」と千島土地株式会社専務(現代表取締役)・芝川能一氏に提案。30年間のプロジェクトを立ち上げ、この場所を手がかりに芸術を軸にした30年間の実験をはじめることになった。
敷地には二本の休眠ドックと、4階建ての鉄骨造の工場家屋があり、これらが今回のプロジェクトの対象空間であった。工場家屋の4階には無柱のドラフティングルームがあり、かつての船の原寸図を記したチョーク跡も生々しく残されている。2004年のvol.00以後、この工場の中にイヴェントスペースとして「black chamber」がつくられ、さまざまな活動が目論まれている。
工場内にはまだまだ余白の空間が残されており、まさに第二のスタートラインに立っている。
工場4階見学会の様子
■株式会社名村造船所
1914(大正2年)5月:大阪市大正区難波島(現三軒家東)にて操業開始。
1932(昭和6年):規模拡大により、当地(大阪市住之江区北加賀屋)に移転。
1973(昭和47年):大型造船を可能にするため、佐賀県伊万里に進出。
1988(昭和63年):佐賀県伊万里に事業所を集約し、関連会社、名村重機船渠(株)より当地を返還。

■千島土地株式会社
土地建物の賃貸、船舶・航空機の賃貸、ホテル・旅館・宿泊施設を経営。
明治期大阪財界の中心人物であった芝川又右衛門は、貿易商として活躍した事業家で、
貿易のみならず、大阪商工会議所設立、紙製漆器業、果樹園経営に携わり、文化人としての評価も高い。
又右衛門以降も芝川家は、芝蘭社家政学園開校、所有地を関西学院大学へ譲渡、宮崎県日向農場買入れ(1951年宮崎県庁へ売却)、鹿児島県枕崎茶園買入れ(1949年日東茶業へ売却)など、さまざまな文化的事業に携わる。
1912年、千島土地株式会社設立後も、所有地を大阪市電軌道敷地、帝塚山学院幼稚園舎、関西学院大学などへ寄付し、大正運河の工事、病院の建築(西宮回生病院に賃貸)等。
1969年には新芝川ビルを竣工、その後、帝塚山タワープラザ、パティオ北加賀屋、六甲ウエストコート11番街、千島ガーデンモールなど、大阪のさまざまなランドマークを手掛ける。
上:施工中の倉庫内部
下:同、ラウンジ

プログラム
Program

クレーンによってミラーボールを吊り上げ、36時間にわたって行なわれた、2004年のvol.00「臨界の芸術論」に引き続き、今回のvol.01「臨界から臨海へ」では、新たに2005年9月にオープンした「black chamber」を使ってシンポジウム、コンサート、パーティーが行なわれた。

シンポジウム「『臨界』から『臨海』へ」は、浅田 彰、磯崎 新、柄谷行人によるもので、空間のリノベーションと、グローバルな状況に関するそれぞれの最近の関心事が語られた。幅広い視点を持つ三人の議論はそれぞれのポジショニングと歩んできた道筋を再確認させてくれるものであったが、いまこの場所で起きつつあることの新しさに対する適切な参照群は見つからないようであった。
後刻行なわれたDJラウンジ・パーティーにおいて、ここがなにとしてつくられたかに関わらず、なにか面白いものとして場の空気を体感していた人々の姿を見て、そういった空気を素直に受け止めることのほうがより本質に近いのではないかと感じた。
左:シンポジウム。左から、浅田氏、磯崎氏、柄谷氏/右:DJラウンジ・パーティー

施設
Facility
「black camber」は、シンポジウムやコンサートその他パフォーマンスなどのイヴェントの要求に対して、それなりにきちんと対応できるパーマネントなグレードのつくりになっている。
対して、その周辺のラウンジ、ギャラリー、ミーティングルームなどは、どちらかといえばもとの空間の素性に素直にテンポラリーなテイストでつくられている。廃墟でピクニックをしているような開放感は不愉快なものではない。それは《金沢21世紀美術館》の内外のヒエラルキーを低くつくった空間で感じた空気と通じるものがあるというと少し語弊があるだろうか。
空間自体が生の素材(ロー・マテリアル)として転がっている状態は、それに対してなにか手をかけてみたいという欲望を発動させる。このプロジェクトをフォローすることはすなわち、そのアフォーダンスに忠実な使い方を、実際に使いながら探っているプロセスに立ち会っていくことになる。
上左:2004年の会場風景
クレーンに吊られたミラーボール
上右:「NAMURA ART MEETING vol.00〜01、
そして30年間の実験とは」会場風景
下:パーティーが行なわれたリビングルーム
オーナーの芝川氏は、「徐々にもとが取れれば」と30年という期間を待つことに抵抗はなかったと語っていた。芝川氏は他に大阪市内の近代の名建築をいくつか所有し、バブル投資の時代にも流されずそれらをきちんと持ちつづけてきた人である。壊して建て替えるという近視眼的な価値感覚ではないオーナーシップを持っている。そこに、小原氏ら今回の実行委員会のメンバーが提案を投げかけるかたちで、「よくわからないながらも」何かを期待して、このプロジェクトはスタートすることになった。

昨年のvol.00に引き続き、今年(2005年)のvol.01でも、こうした交通の便が決して良くない場所でありながら、半日に500名の人間が集まるという事実は、場所の持つ力が有効であることを示すには十分な結果ではないだろうか。
カフェ ギャラリー
左:造船所内のカフェ
右:同、ギャラリー
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撮影=(c)Takahiro Hachikubo

場所×イニシアティヴ
Site and Initiative
これからのこのNAMURA ART MEETINGに期待したいのは、魅力的な空間と、それを存分に活用する想像力にあふれたイニシアティヴの組み合わせが地域を再生する事例となることである。
現在全国のいろいろな場所で、アートを軸にしたまちおこしと呼ばれる活動が起こっているが、アートと地域のイニシアティヴとがうまくかみ合わない事例も多い。
「○○のために」という明確な目的に従属すると、アートは退屈なものになる。また「勝手にする」アートではなにもつながらない。
人々の想像力をかきたてる、刺激的なアートが都市に介入することが、都市の生活を活性化し、またその面白さがアートの想像力をかきたてるような、想像力を媒介にした相補的なサイクルが生まれることが望ましい。

今回も、これだけのイヴェントを行なうために20人に上るボランティア参加者が昨年から引き続き活動をサポートしていたという。さまざまなレベルにおける多様な参加のかたちが可能であることが継続性を生んでいる。この継続性によってまちが変わっていくのだろう。
神田、日本橋のCET(セントラルイースト東京)しかり、名古屋のどんぐり広場しかり、新しい時代の新しい都市の担い手、使い方が姿を現わしつつあるのではないだろうか。

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